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 当該のページは、 0017023番目 (2006/03/07~) 更新日(2014/02/20) 『 kiho-P085
 全体のページは、 1920467番目 (1997/04/01~)


今日も、一日、ありがとうございます。

「ご縁」 です

このページは、「ご縁を大切に」を意識しながら、感じるままに撮った写真を載せています。

そのなかで、自分の生き方、仏教でいうところの、生死(しょうじ)のことを、いろいろ、考え始めています。


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(註1)

現在(2014(H26)/02/20)も、「家猫、ハッピー」の「生死」(しょうじ)のことが忘れられず、このページの更新はできていません。すみませんです。

代わるものがいない自分自身の生死、また、生まれたときから、家族同様の暮らしをしていた、家猫ハッピーの生死、すべての生きとし生ける者としての「衆生」(しゅじょう)の生死、、また、他の生きものの「いのち」を日常、何気なく毎日の三食、食餌(しょくじ)として食べさせて頂いている動植物の「いのち」、その生死、、、「いのち」を喰らわないと生きていけない「自分自身」、、、、、

 

弥陀他力の、もとより、あるがまま、あるがまま、、南無阿彌陀佛 合掌、、、

 

「自然法爾(じねんほうに)の事」(『親鸞聖人御消息 第十四』、愚禿親鸞八十六歳、正嘉二年十二月十四日)、『浄土真宗聖典(註釈版)』第1版、pp.768-769: (追記:2014(H26)/02/20)

****↓引用 ************

『親鸞聖人御消息 第十四』 : 『浄土真宗聖典(註釈版)』第1版、pp.768-769:

自然法爾の事
 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。

「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたま ひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。 無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。

弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
正嘉二年十二月十四日                     愚禿親鸞八十六歳

****↑引用 ************

 

(註2)

輝峰の個人的な願い、、、「義なきを義とす」の、他力にていつの日にか、「方便法身」(弥陀如來)から、「法性法身」(「縁起の法」)の世界へ、感応道交(かんのうどうこう)があればいいなあ、、と。: (自力が消せないままの輝峰(きほう)の妄想、、追記。 まあいいっか、、(笑い) ): (追記:2014(H26)/02/20)

 

(註3)

最近、龍樹(りゅうじゅ)の難解な、『中論』を少しずつ少しずつ読んでいます。『中論』第2章。説一切有部への反論の根拠。「我空法有」から 「我空法空」(人(我)法二空)。「法」(「縁起の法」)すら「空」なりと。主体を離れて、その主体の有りよう(法)は無い。と。 縁起の法=無自性=空=中道=諸法実相=不可得。  南無阿彌陀佛 合掌 : (追記:2014(H26)/02/20) 


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追記:

●2012/01/24:下段の近くの、「ニーバの祈り」:追記しました。

●2011/07/28 :現在最新版は、H23/7/27(昨日)発表の、
『平成22年簡易生命表の概況』

 http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life10/index.html

です。そのなかの、該当 pdf ファイルは、   

  http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life10/dl/gaikyou.pdf

です。私の現時点の年齢の補正をしても、私はあと、16.6年 ? 南無阿彌陀佛 合掌。




No.006: 2010/4/23
ハッピー曰く、「懐で寝かせて」

最近、輝峰(きほう)がパソコンに向かっていると、一日に数回、事前に輝峰(きほう)に目で合図して、私がOKとの目をハッピーに返すと、すぐに輝峰(きほう)の懐に飛び込んで倒れてきます。

輝峰(きほう)が手を添えてあげないと家猫ハッピーは床に落ちてしまいます。

しかし、ハッピーは、輝峰(きほう)が必ず手を添えてくれると信じ切って、輝峰(きほう)の脚に乗ってから、輝峰(きほう)の懐に倒れてきます。

最近は、ハッピーは、加齢により、動作はだんだん、緩慢になってきました。
心配です。

家猫ハッピーは、2010/8月で満10歳。

人間でいうと、猫の年齢は? 何歳くらいなのでしょうね。

webで、調べてみました。


****↓引用 ************
出拠

”How to Calculate A Cat's Age in Cat Years”

catster



・生後1年 年齢15歳

・生後2年 年齢24歳

・室内に居る猫 2年目以降、1年ごとに4歳ずつ加算

・戸外に居る猫 2年目以降、1年ごとに8歳ずつ加算


****↑引用 ************

とすると、家猫ハッピーは、人間年齢換算では、今年、56歳!!!ハッピーさん、お互い、人生、疲れますねえ、、(笑い)



   (Coolpix P5000 2010/4 女房殿撮影)


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No.005:2009/7/13
ハッピー曰く、「私は貴方と一緒の方がいい、、、」

家猫 ハッピー 近影 : 2009/7/13 記


#005-1                                      #005-2 

自分専用のベッドがすぐそばにあるのに、初夏の早朝 暑いのに、輝峰(きほう)の寝ている足にわざと接触して寝ているハッピー: ハッピー曰く、『私は貴方の足元に居るから寝返り打つとき気をつけてね』と輝峰(きほう)に知らせている? 自らも、輝峰(きほう)の寝返りを先に察知して不意をうたれないように、暑いのにわざと足に接触してすぐに逃げられるようにもしているのかしら。 リスクと、リスクヘッジの、ハッピー。頭のいい、人間と同じ思考能力を有する、「生きとし生ける者」(衆生、有情)のひとり、ハッピー。 DSCN9607.JPG+DSCN9609-2009/07/08-06:00、06:30am撮影。  Nikon Coolpix P5000 :ストロボ発光


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No.004:2007/04、2008/04、2009/1
『もう、寝ようよ』

 2007/04、2008/08、2009/1


  #004 ハッピー曰く、『もう、寝ようよ』

DSCN0001tr-s.JPG 2007/04/27-22:52撮影。買ったばかりのNikon Coolpix P5000 :ストロボ発光無し



  
  #004-2.                        #004-3

それでもやめずにパソコンを使っていると、ついに、怒り出して爪をだしてひっかきにきます。D200+DX_18-70/3.5-4.5G   2008/08/06 撮影





   #004-4

輝峰(きほう)が寝ると、安心して、ハッピーも寝に入ってきます。Coolpix P5000 明け方 2009/1/15-07:09 am


#004

午後10時、先に寝に上がった女房殿から、『下へ降りておじさんに、夜更かしは健康によくないよ、パソコンはもうやめて、早く寝に上がりなさいと言っておいで』 と言われたハッピーは、すぐに下に降りてきて、私がパソコンの電源を切って二階へ寝に上がるまで、私のパソコンのそばで、少し爪を出して、私の手や腕を「真剣に」ひっかきにきます。本当にひっかきます。

私が寝にあがるとハッピーは私のふとんのなかの、私の身体と左腕の間に入ってきて、私の左腕をまくらにして安心して一緒に寝ます。

家猫は、四歳児の能力を持っているとどこか聞いたことがあります。目の開かない生まれたばかりのときから哺乳瓶で育て、人間と一緒に暮らしてきた雄、家猫6歳のハッピーは、本当に人間と同じ振る舞いをします。もう立派な家族の一員です。

ふとハッピーは「誰」の生まれ変わりかしらと。また、私の死後の次の生(しょう)は「猫」かしらとも。ついつい、本来の仏教(「諸法無我」(下記参照))とは異なる、「輪廻転生」を思い浮かべてしまいました。親鸞さんのずっと求められてきた、「生死出ずべき道(しょうじいずべきみち)」、私が求めていくには先があまりにも遠そうです。


   南無阿弥陀仏、 合掌。
       (
写真追加:2008/10/20. 文追加:2007/5/6、


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No.003: 2006/12/8
 「座布団を側に置いてあげたのに、スリッパの方が人間みたいでいいとのことらしいです」つづき

  2006/12/08


 #003 DSCN0130s.jpg 2006/12/08 -14:16。 Nikon Coolpix 5700 1/8.1秒、F3.2 P-mode Fine ISO400 62mm相当 ストロボ無し


#003

同じ日の午後、今度は女房殿のスリッパをハッピーに失敬されました。何か云いたいことある?とのハッピーの顔の表情です。(2007/1/4 付記)




No.002 : 2006/3/7
 『私にもスリッパを片方だけ貸して頂戴。彼岸前で、まだ寒い、足が冷たいです。つづき』
  2006/3/7


 #002 DSCN0129s.jpg 2006/12/08 -09:14 。Nikon Coolpix 5700 1/8.4秒、F3.3 P-mode Fine ISO400 74mm相当 ストロボ無し

#002

寒い師走の午前中、私もスリッパをハッピーに奪われました。座布団を側に置いてあげたのに、スリッパの方が人間みたいでいいとのことらしいです。(2007/1/4 付記)




No.001 : 2006/3/7
 『私にもスリッパを片方だけ貸して頂戴。彼岸前で、まだ寒い、足が冷たいです。』
  2006/3/7




 #001 DSC_0531/jpg 2006/3/7-08:19。 NikonD200+18-70/3.5-4.5G+ISO100+P_mode+Large+Normal_mode、1/60sec, F3.8、ストロボ。


#001:

石油ファンヒータストーブの前の家猫『ハッピー』曰く、 『私にもスリッパを片方だけ貸して頂戴。彼岸前で、まだ寒い、足が冷たいです。』とのこと。 結局、スリッパ片方を取られた女房殿は自分用に別のスリッパを持ってきて履きました。 生まれたばかりの目の開く前から人間と哺乳瓶で生活し、人間と会話ができる、 我が家の(家猫・哲学者アリストテレスこと)、「ハッピー」、雄猫5歳です。 2006/3/7


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ゆったりした気分でご覧下さい。



---  記  ---

以下は仏教、儒教、キリスト教などに興味の無いかたは読み飛ばしてくださいませ。(笑い) (2007/8/26 下記一部文章補正、出拠先リンク修正。)





『明日はどうなる』?

を輝峰(きほう)は潜在的に意識して、感じたまま、写真を撮っています。

仏教、儒教、キリスト教は、すこしずつ言っていることが違いますね。皆様はどの考え方に共感されるでしょうか。⇒下記ご参照

これから先、あと、何年生きれるか、

「  平均余命 」  (厚生労働省:日本人の平均余命 平成21年簡易生命表)

では私は、あと17年? これから先、何が起きるのか、不安もありますが、楽しみでもあります。(2010/12/06修正)


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「仏教」  「釈迦三法印」
  • 『諸行無常』(しょぎょう むじょう)
  • 『諸法無我』(しょほう むが)
  • 『涅槃寂静』(ねはん じゃくじょう)


『諸行無常』 とは、

ものでも、こころでも、現象がすべて時々刻々に変化して、少しもとどまることがないということで、ひとは現実のはかなさを直視すべきである。人は死ぬものとわかっていても自分が死ぬとはなかなか思えない。だから、いざ死が近づくと人は恐怖にさらされる。そこで、死が苦となる。無常であるものが無常と知られないところに苦があると説く。(出典:「仏教とはなにか」 大正大学仏教学科編 大法輪閣)

一方、巷に流布している、”祇園精舎の鐘の声…”、琵琶法師の平家物語みたいな、”わび”、”さび”の日本人の情緒的「無常”」、”祇園精舎の鐘の声…”、琵琶法師の平家物語みたいな、”わび”、”さび”の日本人の情緒的「無常””」と、仏教の、ものごとの真理、本質を説く「無常””」とは、全く違うのですが、日本人には間違いやすいですね。


『諸法無我』とは、

すべてのものに永遠に変わらない実体、本体は無い。引用例:『スッタニパータ』:「なにものかをわがものであると執着している人々を見よ。彼らのありさまはひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。」書籍 出典「15 仏教とはなにか その思想を検証する 大法輪閣 大正大学仏教学科 P22L14」。書籍 出典「20 ブッダのことば 岩波文庫 中村元訳」P175L14.(七七七番)。

別の言い方をすれば、「」無くして、まわりから独立して存在する不変的なもの、(「我」、「自性」、「アートマン」)は、無い。釈迦縁起説。釈迦の一番根本的基本の説。と、輝峰(きほう)は領解(りょうげ)させて頂いております。引用1(出典:小川一乗著、「大乗仏教の根本思想」宝蔵館)。これを素直に受ければ死んでも輪廻転生していく霊魂みたいな不変的存在は無いということになりますね。ご参考:『仏教青年Q&A』:六道輪廻と浄土について。 『真剣に考えよう』:仏教に学ぶ

『涅槃寂静』とは、

上記、『諸行無常』、『諸法無我』を悟るものは、苦滅し、やすらぎを得る。煩悩に二度と惑わされることは無い。


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「儒教」

『日日新たなり』 引用2(積極的に自身の徳を日日磨き、民も感化させようという儒教的な文言)、引用3、 引用3-1(「湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新」、出拠:『大學』「第四十二」)。⇒ (儒教)出典:『大學』・・・・・は輝峰(きほう)は、潜在的に意識して写真を撮っていません。


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「キリスト教」

『明日のことを思い煩うな』 引用4(それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことを思いわずらうな。(中略) あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか) ⇒ (キリスト教) 出典:「聖書」(マタイ6・26~34)・・・は、輝峰(きほう)は潜在的に意識して写真を撮っていません

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「ニーバの祈り」

ラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr) :(初版の詩大木英夫)、(英語には色々の版があるが初版の方を、和訳は輝峰(きほう)の気に入った方を選択) 2008/3/13、2012/07/08、補記。


  God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed,
  courage to change the things that should be changed,
  and the wisdom to distinguish the one from the other.

  主よ、
  変えられないものを受け入れる心の静けさと
  変えられるものを変える勇気と
  その両者を見分ける知恵(叡智:えいち))を我に与え給え。

上記の名言はいずれもみな素晴らしいですね。すべて大切にしたい言葉です。

二・二六事件(1936年(昭和11年)2月26日)で青年将校に襲撃銃殺された元教育総監渡辺錠太郎の次女、シスター渡辺和子(元ノートルダム清心女子大学学長、岡山県、1927年2月~)がよくこの言葉を引用されるのですが、そのときは"wisdom"は、上記の「知恵」ではなく「叡智」です。仏教でいう「悟り」は「智慧」(「根本智」)ですが、表現がよく似ていますね。2012/07/08 追記)。


追記
:H24(2012)/1/24

ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉。学校法人聖学院、大木前理事長が日本に紹介し、広く知られるようになった、と言われる、下記のことばの方が、(翻訳文としては長いように感じるが)、初めてのひとには、最近、分かりやすいと感じるようになりました。(以下そのまま引用)。

http://www.seig.ac.jp/edu/inori.htm

 神よ

 変えることのできるものについて、
 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

 変えることのできないものについては、
 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

 そして、
 変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
 識別する知恵を与えたまえ。


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「親鸞」 

親鸞、九歳、得度(とくど:僧侶になる儀式)のときに詠んだと云われる句 :

「明日ありと 思う心の あだざくら
     夜半(よは)にあらしの
        吹かぬものかは」

引用5 :(引用始め)⇒「諸行は無常であり、明日のいのちの保証はない」、得度を控えた範宴(後の親鸞)9歳時、得度の準備が遅れて夜になったため、「得度は明日にしたらどうか」と気使う青蓮院・慈円に対し、「明日が計画どおりになる保証はないのだから、すぐに得度したい」という思いを込めて歌が詠まれた(もしくは以前からあった歌を詠まれた)。(引用終わり)


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 『明日はどうなる』?

話は、もとに戻りますが、結局、輝峰(きほう)は、写真を撮りたいと今思っているなら、「今しかない」、との潜在的な意識で写真を撮っています。

輝峰(きほう)の写真を撮るという行為が、「釈迦三法印」を、こころの深層に自然に表現されていることにいつかはなれるのでしょうか。私にはわかりません。そうなれるとうれしいです。(2007/8/26-24:07am)

堅苦しいことですみません。南無阿弥陀仏、 合掌  輝峰(きほう)でした。

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突然の死

2010/06/14-08:30am 享年9歳10カ月(10歳)(人間換算、医師曰く 63歳)。ハッピー入院2010/6/12、
医師の、血液検査、レントゲン、注射、点滴、6/14 土日ハッピーのそばで宿泊してまでの医師の献身的な看病、
最後、医師の、必死の人工呼吸、ついに還らぬひと(愛猫)に、、、

自宅での通夜、葬儀、斎場での火葬、寺院付属の動物墓地へ納骨、時間は瞬く間に流れてゆく、、、、

諸行無常、、、、、



  2010/6/15 出棺前




  元気なころのハッピー

(D200+Ais55/2.8S、ISO400、1/10秒、F2.8、露出M、WBマニュアルプリセット)。元気なときの、新聞紙の中に入り込むハッピー (2009/12/25)

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今は、ただ、ただ、ハッピーが、私のまわりに、女房殿のまわりに、すぐに現われてくるように、この日々を、、、、、、

南無阿弥陀仏、 合掌、、、、、



2000/8/27 目の開かないときから、我が家に来て、人間の赤ちゃんの哺乳瓶でミルクを飲ませて、水で濡らした脱脂綿でおしっこの仕方を教えて、人間と同じ布団で寝て、朝も昼も夜も毎日会話してきて、ハッピーも、自分は人間と思っているような気がする、家族同様の、10年間、、、、、

ハッピーの死が、

本来の釋迦の教えとして、仏教学問的にどう観ずるか、とか、キリストの教えとして、どう観ずるか、とか、また、浄土真宗(本願寺派、親鸞聖人)的に、どう、觀ずるか、とか、いろいろ、ハッピーの死が、私自身に何を伝えようとしているのか、とか、

四苦八苦のひとつの、愛別離苦など、ひととしての、煩悩、苦悩のひとつ、などとか、グリーフケアとか、ペットロスとか、

そういうことはとうの昔に知っていても、、、

知識など、もう、どうでも、いい、どうでもいい、という気持ちが正直なところです。

こころの悲しみになにも役に立たない、、、

なんまいだ、なんまいだ、、なんまいだ、、、、

南無阿弥陀佛、合掌、、、


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2010/06/18-23:26

ハッピーは死んで今頃、どうしているのかしら、中陰(四十九日)の間、ハッピーは、香気をたべて次の生(しょう)に備えているのかしら。輪廻転生するならば、、。ハッピーは、次は何になって生まれ変わるのかしら、、、、お仏壇の、お線香を絶やさないようにしよう、、、と、、、

四有」(しう) の、「生有」(しょうう)、「本有」(ほんぬ)、「死有」(しう)、「中有」(ちゅうう)。つまり、「中有」(中陰、四十九日)の間、ハッピーは、どうしているのかしら、、と。

「中有」のことがでてくる、『倶舎論』(くしゃろん)(『阿毘達磨倶舎論』世親):「大正蔵」データベース:(159ページ)http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1558_,29,0001a01:1558_,29,0159c29.html を調べます。

具体的に、『倶舎論』をダウンロードして、入手する方法としては、『倶舎論』の一括ダウンロードしたホームページ(テキスト文、159ページ)のなかの、全テキスト文だけを抽出して、Office Word2007に移しなおして、「中有」の言葉だけを検索すると、212箇所も出てきています。2010/6/19-00:08

実際には、私のパソコンは古いので、IE-8では重すぎて、性能的に大量のページを一括ダウンロードできないので、やむなく、軽いブラウザの、「Google Chrome、無料ダウンロード」に切り替えて、上記URLを直接入力し、 『倶舎論』(全159ページ文)を一括ダウンロードしています。

一方、仏教には、輪廻転生が無い、(霊魂の存在を認めない)ことを調べるのに、今、『ブッダのことば(スッタニパータ)』中村元著 岩波文庫、輝峰(きほう)のホームページの、  「書籍」 の、No.20 、そのなかの、「第四 八つの詩句の章」、「第五 彼岸に至る道の章」、を、また、読むつもりです。南無阿弥陀仏、 合掌 2010/06/18-23:26 記


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2010/07/10-19:57

もうじき、四七日(しなのか)です。ここ、ずっと、ハッピーの死を考えていました。ひょっとして、ハッピーは、阿彌陀如來の化身ではないかと、、、亡きハッピーを、この私が、案じ続けているのではなく亡きハッピーから、この私が案ぜられているのではないかと、、、

「ハッピー」は、「この私が、眞の仏法に出会うご縁に遇わせていただくため、、そのために、 阿彌陀さんが、変化(へんげ)してくださったお姿」なのかも知れません、、、、


 散る桜、
   残る桜も
     散る桜

「私(ハッピー)は死ぬ。残ったお前(輝峰(きほう))も、いずれそう遠くないうちに死ぬ。」

生じたものは必ず滅する、、、諸行無常、、

どうだ、お前は、散る覚悟ができているか。と、、

逆説的に言えば、

お前は、本当に、生きる覚悟ができているか、と。

自分で生きている命ではなく、私が生かされている命、、

魚貝、牛豚鳥、野菜穀物、、、生きとし生ける者のいのちを食らってしか、生きていけない、この私、、、

歎異鈔』(たんにしょう)に曰く、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」 言い換えると、弥陀化身(みだ、けしんハッピー歿)の願いは、よくよく案ずれば、ひとえに輝峰(きほう)一人がためなり、、、


 南無阿彌陀佛、 南無阿彌陀佛、 信心正因、称名報恩、 合掌

 あ~あ、でも、でも、悲しい、、、

 2010/07/10-19:57 記

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                                                    以上

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