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 当該のページは、 0005949番目 (2011/07/20~) 更新日(2011/07/30) 『 kiho-P148
 全体のページは、 1920004番目 (1997/04/01~)



ご挨拶

今日も、一日、ありがとうございます。



ご挨拶

お疲れ様です。ご訪問ありがとうございます。ホームページ開設(1997(平成9年)/04/01~)以来、あるときには感動したシーンや被写体の写真を撮ってきたり、またあるときには、自分の日々のこころの動きなどで気づいたことがらを少しずつアップしたりしてきました。結果、ホームページ全体としては現時点合計約130ページくらいになりますがひとつのテーマには統一されていません。それにもかかわらず、全体のアクセス件数は、(Googleなどの検索エンジンのwebページ巡回(クロール)件数も除去が大変なので全体件数に含んではいますが)、みなさまのお蔭をもちまして、100万件の大台に乗りました。改めて御礼申し上げます。ただ、輝峰のホームページは、商業用のホームページではありませんので、ホームページとしてのアクセス件数の多寡(たか)はホームページの持つ本来の本質的な性質の意味にはあまり関係しないと思っています。むしろ、訪問される方にとってほんの少しでもお役にたてられる情報があるとか、共感を得られる情報があるとかあれば幸甚の至りであります。



1.1 近況:

輝峰(きほう)の最近の私事です。現役時代は、コンピュータのソフトウェアやシステム開発の部門に大半従事し、定年後は最初の5年間は、学生となり、仏教を学んできました。昔の話になりますが、敗戦後、東北の疎開先から大空襲のあとの焼野原の神戸にもどり、戦後まもなくの生活習慣として、物心がついたときから月忌参りの僧侶が来られて、お仏壇の前の僧侶のうしろに親と一緒にこどもたちは正座してわけもわからずに、お念仏やご法話をご聴聞(ちょうもん)させていただきました。その後、親からも、地元からも離れて、関東の地で、今から30年くらい前の父の没後から当時の関東の地での月忌参りの僧侶の勧めで、親鸞聖人や、『歎異鈔』にご縁ができました。

とくに、「人間として、こころの内観が非常に厳しく深い」、浄土真宗の親鸞(しんらん)聖人が大好きで、定年後の3年間は、東京の築地本願寺に於いて学生(本科、研究科)として専門に浄土真宗系仏教を学んでいました。そのうち、親鸞(1173-1262)が学んだ日本天台、その日本天台の基礎を築いた、最澄(さいちょう:767-822)の学んだルーツである、中国天台教学を学ぶ機会を、ご講師とのご縁でできました。

すなわち、大陸中国の天台宗(智顗(ちぎ:538-597)、湛然(たんねん:711-782)、知禮(ちれい:960-1028)、傳燈(でんとう:1554-1627)など)の教えを2年間、JR中央線の三鷹駅近傍の大学の大学院修士として学ぶ機会を得ました。

この2年間で厖大な大正新脩大藏經などに収蔵されている仏典に基づく仏教の学び方が得られたような気がします。(輝峰の研究:『中国天台における性惡思想についての一考察』― 幽渓傳燈の『性善惡論』 を中心として ―)

註:「湛然、道邃、行満、最澄」:出拠(しゅっこ):『天台學』根本思想とその展開-安藤俊雄。「書籍」のNo.75、p.330-L03。つまり、日本天台の基礎を築いた、最澄(さいちょう:767-822)は、804年に入唐し、中国の天台山に登り、湛然(たんねん: 711-782)の死後、その弟子の道邃(どうずい)から、本覺法門、行満(ぎょうまん)から、始覺法門を授かったとのこと。



1.2 人生の盛りを過ぎ老境に入ってもなお残る煩悩:

若いころ盛んであった、組織内上昇志向欲、一般の金銭欲、性欲、食欲などは大幅に減少しています。でも、年老いてきても煩悩は消えてくれません。日常の生活をみますと、些事に気を取られ、(女房殿を含む)人間関係にも気を使いながら、右顧左眄(うこさべん)し、さらにカメラ、バイクなどの趣味の機材の物欲に沈んだりしています。現役をとっくに離れているにもかかわらず、年老いてもなお、親鸞聖人の

    「是非 し(知)らす(ず) 邪正(じゃしょう)も わ(分)かぬ
       このみ(身)なり、
     少慈少悲も な(無)けれと(ど)も
       名利(みょうり)に 人師(にんし)を この(好)むなり」
                 (『正像末和讃』-116)

   (註:名利(みょうり:名誉や利益)、人師(にんし:凡夫であって人を導く師匠))

でいるのが私の現状です。

年老いてもなお、煩悩として、「名利」と、「人師」、は残り、ますます強くなってくるのですね。なさらにもまして赤裸々なこころの告白としての親鸞聖人の教えが身に沁みてきます。



1.3 生きている意味の答えを求めて(その1):

今回の東日本大震災、それに伴う福島原発の放射能事故、原子力発電による電力など生活の便利さを求めるあまりのその代償、ひとの真の幸福とは何かを真剣に考えなおされ始めてきていると思います。自分自身、日々の体力の衰えに自然と死が近づいてきていることを心身で感じながらも、これから残された限りある我がいのちの生き方を求め、いずれ確実に来る死への自ら覚悟することもさることながら、今のこの瞬間、つまり、息を吸って次に息を吐くまでの一瞬一瞬の人生を、どう生きるかの生きる覚悟を求めて歩んでいきたいと思っています。

いきなり私的個人的な結論へ飛躍してしまいますが、そのひとつは「釋迦の教え」、あとひとつは「親鸞の教え」です。そして最終的な結論へのきっかけのひとつは、今は、『歎異鈔』(たんにしょう)の「第一章」(このページの最下段にも引用)にあるのではと思っています。

すなわち、私にとっては、これから生きていくこころの支えとして、

  • 1.釋迦の教えの 「縁起の法
  • 2.親鸞の教えの 「他力」 (如來の本願力、信心)

のふたつです。

詳細は下段の「雑感」に記載しています。

私にとって、ひと、動物、生きとし生けるも(衆生(しゅじょう)、有情(うじょう)、語釈後述)の、すべてがみな、我が師、善知識(ぜんぢしき)であります。

  合掌

 註:出拠(しゅっこ):語釈「名利」:名誉や利益:『佛教語大辞典』中村元、「書籍」のNo.55、p.1301-c03、 語釈「人師」:凡夫であって人を導く師匠のこと。同著、 p.1069-d03。 『正像末和讃』:同「書籍」のNo.13 『真宗聖教全書』第二巻の中の、『顕浄土真実教行証文類』。p.531-b05。第116句目。 他力」(如來の本願力):同「書籍」のNo.13、『顕浄土真実教行証文類』の「行巻」。p.35-L11(「他力(たりき)というは如來の本願力(ほんがんりき)なり」)。縁起の法」:下記「雑感」に記載。

ここで引用している教典や論書などの大半は、高価な書籍を買わなくても、原文レベルでは、諸先輩の労苦の賜物、世界の仏教学者からも愛用されている、「大正新脩大藏經テキストデータベース」に載っています。経典や論書などの一括ダウンロードの方法は、輝峰の「目次」のページの上段、第一部、「輝峰(きほう)」の表の中の、「大正藏経典一括ダウンロード方法」に詳細に記載しています。たとえば、親鸞の、『顕浄土真実教行証文類』(俗称『教行信証』)は、そのページの最下段にそのURLが載っています。ご参考までに。

   

 「目次」 へ。



 雑感:(2011/06/13 追記:校正の連続中): 
    以下は、ホームページとしては、ややこしいので、釋迦「縁起の法」などに関心のない方はパスしてくださいませ。



1.4 大震災後、問われ始めてきた、「人間の本当の幸せ」とは:

当家族も生死には至っていないが無縁ではなかった、「阪神淡路大震災」(H7/1/17)や「東日本大震災」(H23/3/11)。

特に、今回の東日本大震災の「原発事故」災害では、「有情」(うじょう、衆生:(しゅじょう):生きとし生けるもの、こころをもつもの):ひと、動物)、さらに範囲を広げて、「無情」(むじょう:こころをもっていないもの:植物、自然など)にとっての「幸せ」とは何か、をまた真剣に考えさせられる。

よく話題にされている、ブータン国の開発政策の根幹をなす概念、「国民総幸福量」(HPの「書籍」No.49 『ブータンに魅せられて』岩波新書、今枝由郎著、ご参照、引用:)-4つの主要な柱(持続可能で公平な社会経済開発、自然環境の保護、有形、無形文化財の保護、そして良い統治。)の、今の私に問いかける意味とはなにか、と。

とくに今回の、地震、火災、津波、そして、現代の文明の象徴、「原発」のもたらした意味はなにか、と。原発などの電気のおかげで便利な楽な生活を知らず知らずにおくっている私たち。原則として、電気などあまり使わなくてもよい生活に戻るべきか。冷蔵庫、洗濯機、エアコン、車、二輪、新幹線、飛行機、等々、さまざまな文明の利器を享受してきている。電気だけでなく、限界のある、石油、ガスなどの資源利用も考え方は同じ。昔のひとの生活に比べて格段に便利な生活を享受している。そして、今回の原発放射能被災。震災で親、子、配偶者などを失い、生き残ったものも原発に近い地域の方たちは、戦争ならぬ放射能の疎開、またその、地球上の自然現象の地震、津波の「被災」、逆に、一部原発などの人災からの「被害」、その世界のなかで支援を受ける側と支援する側のボランティアのひとたちの活躍、そのなかでの悲しみの共有と、互いに交(かわ)わされる笑顔。人間の本来の幸福とは何か。ややもすれば、自分や家族の健康、文明文化の多少の享受、金銭や、自己目標の達成觀、ユニセフ、日本赤十字、国連難民救済活動や、国境なき医師団などへの寄付、自らのボランティア活動とか、などにみずからの幸福感を満たしているのであろうか。そうとばかりは言えない。文明の発展を享受しても善い妥当な範囲がどこまでなのか、どこまでの行為が善くてどこからが悪いの悪か。善と悪。文明の利器を使わなければ使わないほど、ある意味、それを提供している大勢のひとたちの職や生活が失われることもある。本来、私たち、いや、私自身、どういう生活をすべきか。ブータン国のひとびとの考え方も一面、すごく、共鳴できる。が、極端な清貧生活にも続けるには限度がある。自分自身どう生きるか、それには私たち自身、いや、私自身、が相当の覚悟がいる。自然災害と人災の織り交じった今回の災害。科学や政治などの問題もあろうが、自分自身のこころの問題として捉え、ひとさまはいろいろなお考えがおありでしょうが、私自身、自分自身の覚悟を問う。



1.5 善惡とは:

そしてまた、私にとっての思考に答えの無い、私のループ、「善惡に定め無し(不二(ふに))」、「邪正一如(じゃしょういちにょ、不二(ふに))」など、堂々巡り、いずれが正しいか間違っているか、正しいと思っていることが他のひと、もの、にとっては正しくなく間違っているのか、など、頭のなかで、私のこたえの見つからない煩悩がまた繰り返されている。

善惡に定め無し」とは、たとえば、私は浴槽に落ちたカマキリを掬(すく)って庭の草木のなかに逃がした。カマキリにとっては私はいのちの恩人、私の行為は善である。しかし、カマキリも小虫などを捕獲して食べ続けていかないと死ぬ。草木のなかに居て食べられる小虫にとっては私の行為は非常に残酷な惡である。でもそのカマキリを食する、鳥、小動物も居る。そのものにとっては私の行為は食物をくれた行為、善である。善惡は受けるものの立場の数だけある。いずれが善か惡か、いずれが邪義か、正義か、我こそ善なり、我こそ正義なりと主張しても、それぞれの立場の数だけ、この世、濁世(じょくせ)には存在する。眞の、善惡、邪正、の行為の世界は、佛、如來のみぞ知る(下記註:出拠(しゅっこ)-1)。生物学、物理学、環境学などの学問でいうところの、生命の循環、や、エネルギーの循環、の理性として問題を捉えていくのではなく、この私自身のこころのなかの、苦、煩悩の問題として捉えていく。

庭のとかげ-「善惡定め無し」-D200+大口径80-200レンズ


 ・庭の、とかげ
  (2匹のうちの1匹)

 ・D200+ニコン直進AF
  大口径望遠
  ズームレンズ80-200/2.8S
  (H23/6/19撮影)

 ・「善惡に定(さだ)め無し」
 ・「邪正 一如」
   (じゃしょういちにょ)

 ・自己中心、人間中心に
  善惡、邪正を考えるのは
  いいものかどうか、、、 


私自身の、十惡煩悩。自分のいのちの時間や快適さを大切にするあまり、いろいろの家庭電化製品、電車、新幹線など大量の電気(原発など含む各種電気)を、さも使うのが当然として享受している。さらに、ひもじい思いをしないで、いのちを楽しく生きていくために、多くのごはんやパン、うどん、野菜などだけでなく、おいしい酒を楽しみ、しばしば、おいしい肉食(にくじき)を楽しむ。それは多くの動植物のいのちを食らって生きていることになる。つまり自分のいのちを保つためには、他の生きとし生けるもののいのちを食らってしか生きられない私自分の置かれている位置である。これは、惡とは思う。自分自身のいのちをつなぐということはどこまで許されることか。食事のときにこころをこめて料理してくれた女房殿と話をすることがある。食前食後のいただきます、ごちそうさまでした、の文言(真宗的定例の文言)の話をするときである。そのときにこのようないのちとは、と、いのちの根源について話をするときがある。でも食事のときはその話はしないで、と、嫌がられる。肉や魚や、しまいには野菜までの料理ができなくなると。で、また、私の煩悩が始まる。生死(しょうじ)出(い)ずべき道(煩悩、苦悩の消滅、こころの安穏、やすらぎ、悟りを求める道)の問題は、私自身の問題である。女房殿に愚痴をこぼしても仕方が無い。

註:出拠(しゅっこ)-1:「善惡」(ぜんあくにさだめなし):智顗(ちぎ)説『摩訶止観』(まかしかん): 『大正新脩大藏經』第四六巻、p.17-b17。大行、非行非坐三昧。『摩訶止観』-『佛典講座-25』「書籍」のNo.106、pp.362-367、輝峰(きほう)の解釈:自己の「惡」を觀察(かんざつ)する。自己のこころのなかで惡(蔽(へい):六蔽:)すなわち、自分は、煩悩がたえず起こり、とどまるところがない。むさぼりの心多く、他を憎み瞋(いか)り、怠惰にときを過ごす。酒を好んでこころを乱し、智慧なきゆえにこころがたえず揺れ動き、おろかなことこの上無い。この觀察のなかで、さらに善惡を区別していくと善惡を区別するはっきりとした基準のようなものは立てがたい。最終的には凡夫の立場を超えた釈、が必要と。つまり、智顗(ちぎ)、天台大師( 538-597)の説く、中國、天臺、法華の、「圓(えん:円)の法」(天台の五時八教だが、とどのつまり、教えとしては、天台特有の、「諸法実相」、「中道」の釈。これを一般的に言い換えれば、「縁起」(縁起、空、無自性、これらは同じこと、つまり、縁起の法)の釈。が必要と。

この濁世(じょくせ)での行中の「善惡」、つまり「修善」(しゅぜん)、「修惡」(しゅあく)から、突き詰めていけば究極の、「體」(たい)の「本」(ほんしょう)としての「善惡」、つまり「性善」(しょうぜん)、「性惡」(しょうあく)に至り、これら「」(しょう)の「善惡」は不二、一如と知るは、如來(に達するもの)のみと。

(話は飛ぶが、中国、天台の、如來には惡をも有す、とかは、俗称『觀音玄義』、正式名『観世音菩薩普門品玄義』智顗伝、『大正藏』三十四巻、pp.877-892。「縁了」(修性(しゅしょう)善惡(「性善」(しょうぜん)、「性惡」(しょうあく)、「修善」(しゅぜん)、「修惡」(しゅあく)に関する)の五番問答)p.882c8-883a11。「料簡縁了者。問縁了既有性徳善亦有性徳惡否。答具。~」ご参照)。

註:出拠(しゅっこ)-2:「善惡不二、邪正一如」:織田得能著 『織田 佛教大辞典』、大蔵出版、「書籍」のNo.98、p.1056-a08、『維摩詰所説經』「入不二法門品(第九)」鳩摩羅什譯『大正蔵』十四巻、p.550-b28。「善不善」p.550-c21、「正道邪道」p.551-c09。



1.6 縁起の法:

最後は、釋迦の説く、

縁起の法」(えんぎのほう):

  • すべての現象は無数の、原因(「」)や、条件(「」)が、相互に関係しあって成立しているものであり、独立自存のものではなく、諸条件や原因がなくなれば、結果(「」)も、おのずからなくなること。仏教の基本的教説。(引用:当HP「書籍」No.55。中村元著『佛教語大辞典』p.118-d20)。
  • 「縁起法」(Sanskrit :サンスクリット語) pratītya-samutpāda 『漢訳対照 梵和大辞典 新装版』:鈴木学術財団編 講談社 当HP「書籍」No.56 p.846-a03。原因と結果との連鎖関係。

に戻ってくる。

結局、佛教は、「縁起の法」の、このひとこと、のためにあるように私には思われる。この世(濁世(じょくせ))では生じたものは必ず滅する。しかし、生じることも、滅することもない、唯一の真理の世界、「眞如」の世界、つまり、「縁起の法」の世界。これに気付くこと。「四聖諦」(ししょうたい、略称「四諦」(したい))などで説く、自己の、煩悩、苦、の生滅への、方法は、自力、他力、とあるが、そのどちらに対しても、「縁起の法」の、その真理に気付くことが佛教の教えの大事なひとつかと思う。



1.7 自力と他力:

そして私としてのこたえは、自力では、「少欲知足」(しょうよく ちそく:欲少なくして足(た)るを知る:『大正蔵』十二巻、『佛説無量壽經』康僧鎧譯、p.269c13)を実践しようと、この世ではエコとしても自己の最大限の努力の範囲を試みる。しかし、そうして努力しても、人間として欲望の終わりのない煩悩の、「この私」、に行きつき、どうしょうもなく、最後の救いは、『歎異鈔』(第一章)に戻っていく、、、。究極の、「本願他力」。すなわち、「南無阿彌陀佛」。

 この、「南無阿彌陀佛」 は、「方便法身」(ほうべんほっしん)。一方の「法性法身」(ほっしょうほっしん)は、「いろもなし、かたちもましまさず。しかればこころもおよばず、ことばも絶えたり。この「一如」(私的註:「眞如」(しんにょ)のこと)より、かたちを顕わして「方便法身」(私的註:「南無阿彌陀佛」のこと) ともうす。」 (下記出拠-1参照)。すなわち、「方便法身」の「南無阿彌陀佛」の奥にある、「法性法身」、つまり、「眞如」の世界、すなわち、「縁起の法」の世界。

すなはち、親鸞聖人の説く「一如」、とか、「眞如」とかの世界とは、釋迦の「縁起の法」の世界(今われわれが居る「有爲」(うい:この世、濁世(じょくせ))の世界ではなく、「無爲」の世界(むい:asaṁskṛta、ニルヴァーナ、悟り、極楽浄土、などの世界(釋迦の「縁起の法」に気付く眞如の世界、この法に気付くことにより「苦しみ」の低減、消除された世界、「抜苦与楽」(ばっくよらく)の世界など)の世界)と同じこと。つまり親鸞聖人の究極の教えは、釋迦の、「縁起の法」に基づいていることと同じ、すなわち、私の知るところでは、釋迦の真実の教えにもっとも近い教え、と私は自分勝手に現時点では(明日はまた考えが変わっているかもわかりませんが)、領解させていただいております。

それに気づきできるだけ頭のなかだけででも自力で煩悩滅除の修行しよう思えどもまったくままにならず、頭のなかはかえって煩悩ばかりの私に苦しむ、身近なひととたちとの人間関係、個人の尊厳の自意識過剰、物欲、性欲、食欲、金銭欲、名誉欲、などの濁世(じょくせ)の人間としての生存本能、このような強欲な煩悩熾盛(しじょう:いっぱい)の私をも救ってくださる、「攝取不捨」(せっしゅふしゃ)の、『大無量寿経』の彌陀誓願、本願の、第十八願、、、、、私を導いてくださる七高僧および親鸞の、「本願他力」(註:出拠(しゅっこ)-3)の教えの、「南無阿彌陀佛」に感謝。

註:出拠(しゅっこ)-1:「方便法身、法性法身」:親鸞『唯信鈔文意』(ゆいしんしょうもんい)p.630-L12:『真宗聖教全書』第二巻。HP「書籍」No.13)

註:出拠(しゅっこ)-2:「方便法身、法性法身、二種法身」:曇鸞(どんらん)、正式名『無量壽經優婆提舍願生偈註』(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげちゅう)、俗称:曇鸞の『浄土論註』、『往生論註』、:『大正蔵』四十巻、p.841-b13。「諸佛菩薩有二種法身。一者法性法身。二者方便法身。由法性法身生方便法身。由方便法身出法性法身。」。

註:出拠(しゅっこ)-3:「本願他力」:「他力というは如來の本願力(ほんがんりき)なり」(『顕浄土真実教行証文類』:『真宗聖教全書』第二巻 p.35-L11。):最初に自力他力と言うは、「自力他力」:上記の曇鸞の『浄土論註』『大正蔵』四十巻。p.844-a21。



1.8 不真面目な私の南無阿彌陀佛:

最近では、場所、時間も、人の手前もなんのその、かかわりなく、また、女房殿から誤解を招くのでひとまえでは口に出さないようにと言われても、とめどもなく口から出てくる、私にとっては煩悩発生時の魔除けのおまじないがわりかもしれない、南無阿彌陀佛。眞の意味での称名報恩と言えないかもしれない南無阿彌陀佛。そして時間的煩悩で苦しむ時間がだんだん低減されていることへの感謝の気持ちの南無阿彌陀佛、そして本当のこころからの彌陀への感謝、感謝、感謝の南無阿彌陀佛。

昔、講義のなかで、いろいろ真宗の教えを聞かせて頂いてきたご縁のあった複数のご講師に私個人の称名のこころの状況についての質問を何回か投げかけたことがあります。そのときの複数のご講師(僧侶兼住職兼学者:学僧)先生方のお話ですが、「私(ご講師)もそうです。場合によっては、こんちくしょうと思いながら南無阿彌陀佛と念仏を称えたこともあります。」と。でも、「ひとの、そのときそのときのどのような「称名」(しょうみょう:名(なむあみだぶつ:六字名号)を称(とな)える)念仏、それが、報恩のこころであっても、おまじないがわりであってもどのようなものであっても構わないですよ、すべて、阿彌陀さまはすべてお見通し、ご存じですので。」と。経典にも出ている彌陀(みだ)の「攝取不捨」(せっしゅふしゃ)(註:下記出拠(しゅっこ))。なににもましてありがたいことと感じています。

註:出拠(しゅっこ):「攝取不捨」(せっしゅふしゃ):俗称『観無量寿経』、『観経』、正式名『佛説觀無量壽佛經』 (No. 0365 畺良耶舍譯 ) in Vol. 12『大正藏』十二巻。(pp.340-346)。 p.343-b26。「光明遍照十方世界。念佛衆生攝取不捨」。:語釈:「攝取不捨」:「(仏が衆生を)救いとって捨てないこと。念仏する衆生を残らず救済しょうとする阿彌陀佛の慈悲を表わす」。『佛教語大辞典』中村元、「書籍」のNo.55、p.832-a23。



1.9 これから生きていく意味の答えを求めて(その2):

なにかにつけても、瞬時瞬時に起こるこの欲望煩悩苦悩の消えない、私です。これから先、どんな、自力修行をしても煩悩は、消せるとも思いません。考え方はひとそれぞれでしょうが、それでも、この親鸞聖人の他力の教えに、であってからは、私は煩悩は起きてしまうことはさけられないが、起きても、そのもと(釋迦「縁起の法」)や、親鸞の徹底した「本願他力」の教えを伺い知ると、私にとっては、我が煩悩により、苦しみ、その煩悩の発生のたびごとに、自分自身が自分の煩悩の本質を理解できるまでの長い時間、苦悩となっていたのが、煩悩が煩悩、すなわち煩悩が苦悩と成らなく為る(滅する)までの時間が、徐々に短くなっていっているような気がしてきています。ひとさまにはいろいろなお考えがおありかと存じますが、私にとってはありがたいことと感謝しています。

こころの底から、釋迦の「縁起の法」、および、親鸞の説く彌陀の「本願他力」(浄土真宗で言うところの「安心」(あんじん):「信心正因、称名報恩」:「南無阿彌陀佛」:信心が正因で、称名は報恩)にただただ感謝感謝感謝です。

この答えが、『歎異鈔』の第一章の答えと、領解(りょうげ)させていただいております。 この第一章を読むたびにわが身に置き換えて有り難く涙がでるほどの感動を受けています。ことばのひとつひとつが簡潔で意味の深い、内観の厳しい親鸞聖人のことば、と味わさせて頂いております。合掌

註:引用:『歎異鈔』:


第一章:

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々。

 以上


追伸: ( H23(2011).7.12付記 )

1.10 生死出ずべき道と宗教心

一般のひとや、特に論理性(エビデンス:evidence:証拠、根拠など)を必要とする理系出身の方にとっては、宗教(仏教、キリスト教、など)の世界は、なかなか信じられない世界かも知れません。

そういう方には、

  • 親鸞の「念仏」(念仏とは彌陀本願他力、彌陀とは法性法身からの方便法身)、と、「信心(彌陀他力の信心)」を、釈尊の「眞如、縁起の法」への「気づき」と置き換え、
  • 親鸞の「信心(信心正因)、念仏(称名報恩)」を、釈尊の「縁起の法」への、「気付き」と、「気付き」によりこの世の無常の苦しみが、いつしかやわらげられてきていることへの「感謝」、と置き換えることは、考えられないでしょうか。

一例として、数か月前のNHK_BS_TVの再放送(元の放送は、「ザ☆スター」 H22 ( 2010).07.10と11のBS3とBS2の放送分)で俳優兼監督の津川雅彦さんが、苦労されたご自身の経験上から、立ち直るきっかけとなったのは、「起こったことはすべて正しい」と考えるようになったと言っていました。

これは、「縁起の法」(すべての現象は無数の、原因(「」)や、条件(「」)が、相互に関係しあって成立しているものであり、独立自存のものではなく、諸条件や原因がなくなれば、結果(「」)も、おのずからなくなる:上記の註より) に気付く、ということはないでしょうか。

つまり、津川雅彦さんは、ことばこそ違いますが、仏法で言うところの、「縁起の法」の道理に気付かれたと私は感じました。津川雅彦さんの経験のなかで苦しんでいるときに立ち直るきっかけとなったことば、「起こったことはすべて正しい」、と考えるようになったということばは仏教的には、相当奥の深いことば、と、私はそのとき思いました。

苦しみや悲しみへの思い、そして宗教への思い、は、ひとそれぞれかと思います。

自分の考えをひとに押し付けることはできません。この世では、それぞれがそれぞれに考えていくことしか解決の道は無いのかなあと思います。厳しいことですけれども。

「人在世間愛欲之中。獨生獨死 獨去獨來。當行至趣苦樂之地。身自當之。無有代者。」(人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行(ぎょう:おこない)に当りて苦楽の地に至り趣く。身(み)みづからこれを当(う)くるに、代るものあることなし。)

出拠:『佛説無量壽經』大正藏第十二巻 (No.0360) in Vol. 12 。p.274-c24。「獨生獨死 獨去獨來」(どくしょう どくし どっこ どくらい)。

南無阿彌陀佛、合掌。





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ゆったりした気分でご覧下さい。

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                                                    以上

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